家の庭から見上げる宮山もうっすらと春の気配に霞んでいるように感じられる。 もうすぐ桜の花の列が頂上まで続いていく。
淡いピンクのカーブラインが青空まで達し、それはまるで、裏山が、やわらかいピンクの帯を掛けているようになる。
六十年ほど前、働き盛りの男たちが出征し、残された年寄りや、女たちが、神社がわのあたたかい申し出によって、うらの宮山を開墾していった。
私もちょうど今の孫ぐらいの年だっただろう、記憶によみがえってくる場面が、いくつかある。
切り倒されたすこしばかりの明るさの場所。 そこで、飯盒で飯を炊き、汁を煮ている煙がのぼる。女達の豪快な話し振りや笑い声。 疲れを知らないような覇気。 最後に与えられる、汚れた手で握られたおこげの飯。
大男のようにトンガやくわをふるい、ノコギリで木を倒していく姿。
そして獲れた芋、大根は当時貴重な食料となっていた。
母は自分たちの手で切り拓いた土を捨てがたかっただろう。 必要となくなってからも、何十年も裏の山の畑に出かけて行った。
ある時は、さつま芋畑となり(それは赤土でできた芋でほくほくと美味)みかん(斜面で甘い)梅(無農薬の梅干し)に変わり、最後は一面の水仙畑となった。
そして二十年ほどまえまで土手に残されていた山桜の下で、毎年弁当を開けた。
母はたぶん開墾にでかけた女達の中で一番若い嫁だったと思う。 今、私が思い出すおばさん達は、すでに亡く、最後の母もいない。
家の裏から、畑に通じていた道も自然と消え、畑も見分けがつかなくなっている。
かすかに、あのあたりだったのだろうとわかるのは、つたのような植物に覆われた、うすいピンクの山桜だ。
宮山の頂上まで、車で行ける道がつくという案が出た時、父がお礼にさくらを植えようと言い出した。 せめて自分たちがつくらせてもらった土地の辺りだけでもさくらを植えようと意見を出した。 何時のときにも、どんな事にも反対意見があるもので、その話も難航したことを思い出す。 せっかく植えた苗木を今日も切られたとか、引っこ抜かれたと言う父の愚痴を何度も耳にした。
その時、植えられた桜の木々は、頂上へと登っていく並木の中でも一番太く大きく、枝が道まで覆い、季節が来ると満開の花のトンネルになる。
途中の一番の休憩所は地蔵尊のまえの幹を四方に広げた桜だ。 石で彫られ、少し欠けたお顔の、このお地蔵様は、開墾していた土の中から現れた。
ながいながい眠りから覚め、土にまみれてお姿を現した。
その時の騒ぎもよく覚えている。 人たちは、きれいに洗い清め、お祭りした。
今も時々行き交う人が草花を手折り、持っていた菓子袋がお供えされている。 昔はその場所から里が一望できたが、今は雑木や草が生い茂って眺望がまったくきかない。
息子が窯を開くにあたって、八幡工房の名前を頂いた。
時々焼き物に混ぜる土を取りに、おばあちゃんらがつくった、かつての畑に入る。
すこし鉄分を含んだキラキラした焼き物が生まれている。
そして一年に一回、お花見に山へ登る。その年々で顔ぶれも違うが、今年も桜吹雪の中で弁当をひらいた。